私の手が届く距離

 私がただの地獄鴉だった時のお話。言葉なんて話せず、他の動物たちとは意思疎通も出来ず。私以外の地獄鴉からは『お前は頭が悪い』と馬鹿にされて孤独だったの。私はとても寂しい気持ちでいっぱいだった。羽を丸めて縮こまっているのがお似合いなのかもしれないって。
 けれど、さとり様だけは違った。自分の心を読んでくれて、私を受け入れてくれる。私が伝えたいことを分かってくれるの。さとり様は言葉が話せない孤独な妖怪や動物にとても優しくしてくれたわ。昔、さとり様が聞かせてくれたソロモン王とはさとり様のことだと思う。私に素敵な魔法をかけてくれたから。
 ピアノという西洋の楽器。艶のある黒い外装、変な湾曲を描き、パカっと蓋が開いている。そこに象牙でできた鍵盤と呼ばれる白と黒が混ざった板を指で押さえれば、ポロンと可愛らしい音が出る。さとり様はこのピアノに熱心で、暇な時間があれば一人で黙々と美しい音色を奏でていた。
 紫や赤、黄色に藍色。色とりどりの模様が描かれたステンドガラスの光がピアノとさとり様を照らす。陰は伸びきり、さとり様の演奏に合わせて動きを変えていく。鍵盤に跳ねる運指は晩秋の川のように滑らか。そのお姿を私はこっそりと覗いていたわ。紺色と白をブレンドした斜光が透き通る窓ガラスの近くで私は耳を済ませて。
「Heart and soul, I fell in love with you.Heart and soul, the way a fool would do, madly......」
 穏やかな、淡藤色の声。いつも気だるげなさとり様と違って、天井に響き渡る小鈴のような異国の歌。そして、しっとりと染み渡るような物悲しい感じ。物悲しいのだけれど、心に語りかけるような旋律と歌詞は私の心に突き刺さった。
「おや、お空。あなたがいつもこの部屋に来ていることは知っているのですよ?」
 ドキッと私の心臓は跳ね上がる。焦りを感じた私は逃げ出すことも出来ず、スリッパを鳴らしながらやってくるさとり様をじっと見ていた。微かな空気の流れで蝋燭の火がじわりと滲んでる。
「あなたもピアノが好きなのかしら?」
 そっとさとり様の小さな手が私の羽を包む。生暖かい、心地が良い。さとり様が闇夜の輝きと言ってくれた私の烏羽。そっと、平らな胸へと抱き寄せて、私は目をつむって落ち着いたの。さとり様のトクトクと動く心臓音に身を寄せた。
「よしよし。本当は私の拙いピアノを聴かせるのは恥ずかしいんですよ。でもね、あなたが喜んでくれたのなら嬉しいわ」
 私はカァっと胴間声で鳴いてみた。とても醜い鳴き声。ウグイスや九官鳥みたいに鳴くことが出来たらなと思うことがあるの。だって、私の声は意に反して威嚇をしているように聞こえてしまうから。
「お空はピアノが好き? それとも、私が好きなのですか?」
 とても単純な質問で、そして答えが明確な質問だった。さとり様の胸に頭を擦り付け、私は心のなかで叫んだ。さとり様が大好きだ、と。
「そう、私が好きなのですね。私がピアノを弾く姿が好きなのですね」
 ぎゅっと私の体を包み込み、今度はさとり様が私の頭に頬ずりをしてくれたわ。ローズの香水が効いたふんわりとした匂い。枕のように柔らかい肌触り。心のなかから安らいでしまう。
「あなたが人の体を手に入れたら、きっとピアノが弾けるでしょうね」
 さとり様のペットの中には人の体を手に入れた子がいる。それは、どういう条件でなれるのかは分からないけれど、私も人の体が欲しくなった。人の体を得て、私はさとり様と同じようにピアノを弾きたい。鍵盤の上で小魚が跳ねるような指先を想像しながら、私はずっと待っていたの。
 


 きっかけは分からない。ある日、私は疲労感で沈むようにその場で寝落ちしてしまった。どのくらい寝ていたのかは分からない。目が覚めたら私は体に強い違和感を感じたの。おっきな黒い羽はいつもの様に動かせるのだけれど、足がとても長く感じる。関節が一つ増えている。腰が前にカクンと曲げることが出来たわ。
 床を這いずりながら、額を支点に体を起こそうとする。足をその場でばたつかせ、必死に関節を曲げて立ち上がる。1つ増えた足の関節が油切れの歯車みたいに重い。なんとか立ち上がり、おぼつかない足取りで私はさとり様のいる書斎まで歩いて行く。飛べなかったのは、羽が大きすぎて壁にぶつかってしまうから。
 ぐいっと金細工のドアノブを噛んで、肩を使って栗色の扉を開く。紅茶を嗜みながら、書類と向き合っていたさとり様はよちよちと歩く私の姿を見てたいそう驚いた。そして、安心感で崩れ落ちた私の元へ駆けつけて、優しく両肩に手を置く。にっこりと淀みのない笑顔で私に告げたの。
「おめでとう、あなたは人の体を得たんですよ」
 その言葉の意味はすぐにはわからなかったけど、さとり様が取り出した手鏡を見せられて気づいたわ。柳のよう長い火炎めいたブラウンヘアーに、目がくりっとした童顔。人間の幼女と遜色ない、しっかりとした立派な体。私は、ついに人の体を手に入れたんだと理解したの。
「さあ、お空。あなたはまだ上手に体を動かせないと思います。これから、ゆっくりと慣らしていくのですよ。なに、難しいことではありません」
「はい、さとり様……」
 上目遣いでさとり様を拝んだ。私の初めての人語はこの言葉だったっけ。けっして、その言葉を恥じるわけではない。むしろ、初めて話した言葉がさとり様の名前だったことに誇りを持っていた。
 こくんと頷くと、さとり様は私の脇に手を差し込んで立たせようとする。私も足を動かし立ち上がろうとするけど、うまくいかない。膝を動かすことに慣れないからだ。生まれたての子鹿みたいに一生懸命踏ん張って、なんとか立ち上がることが出来た。
「支えてあげるから、一緒に歩きましょう。今日はあなたのためにごちそうを用意してあげますよ。せっかくのお祝いごとです」
「やった! さとり様大好き!」
 そのまま、私は首を伸ばしてさとり様に頬ずりをする。頭を傾けるために腰を動かすのに苦労したけれど、案外上手く行った。さとり様も同じように私の頬にキスをしてくれる。それだけで、私は人の体を持ったかいがあったと喜んだ。
「お空、手は動かせますか?」
「手? あ、あれ……?」
 そういえば人間には手があるんだったと気付き、私は右手をじっと見てみた。動かそうと思って力を入れてみるけど、ピクピクと痙攣するだけで思うように動かない。石のように重い。ただ、ぶら下がっているヘチマのように揺れるだけ。
「そうね、多分あなたは手を持っていなかったから動かし方が分からないのでしょう」
 さとり様の言うとおりだった。烏だった私には手なんて物はない。空に向かってバサバサと動かす羽と、ぐっと握ったり掴んだりするしか能のない三叉の両足。そして、手の代わりに使うくちばしはもう無い。
「変わるということは捨てること、得ることを同時に行うものなんです。お空、あなたは変わった自分を受け入れていくのですよ。それは、暗夜を歩むような恐ろしさがあるかもしれませんが、きっとあなたは自分を好きでいてくれると思います」
「うにゅ……」
 馬鹿な私にはさとり様の言葉は良くわからなかったわ。私はただ、この両手を自由に動かしたい気持ちでいっぱいだった。なぜなら、さとり様のためにピアノが弾きたかったから。そのために体を得たんだと、私の中で使命じみたものがあったの。他人から見れば馬鹿みたいな理由なのかもね。
「さあ、私が支えてあげますから、少し歩く練習と手を動かす練習をしましょう。徐々に動かせば感覚がつかめるはずです」
 お母さんというのはさとり様のような人のことを言うのだろうか。慈しむように微笑むさとり様に私は少し涙をこぼした。その涙を人差し指で拭ってくれるさとり様は本当にずるい。
 
 腰を支えてもらいながら歩いてみたり、感覚をつかむために腕を曲げてもらったり。とにかく、触感で動かすように努力してみたの。一応、肌に触られる感触は人同様にあるらしいので、あとは動かすために慣れが必要だとさとり様は言う。
 足の方は案外早く慣れて、歩く程度ならこなせるようになった。けれど、手の方は関節を曲げたりはできるけど、上手く物をつかむというのは難しい。グーパーとぎこちなく手を閉じたりするけれど、指先は上手く動いてくれないようだ。
「さあ、練習はここまで。今日はお空のための祝賀パーティーです。あなたの好きな肉料理を食べましょう。けれど、その前に……」
 さとり様は私の手を優しく握ると、私のよちよちとした歩くペースに合わせて部屋から連れ出してくれた。少し足がもたついて、不安でいっぱい。
 衣裳部屋に案内されると、綺麗な服がたくさん並ぶ部屋の中でぽすんとビロードのワインレッドな丸椅子に座らせられる。おしりが少しむず痒い。チクチクする。
「あなたは服というものをよく知らないようですね。人の体を持つということは、裸に恥じらいというものを感じるものなんですよ。だから、みんな服を着るのです」
 真っ裸の生まれたての私には、初めてのことばかりで理解が全く追いついてなかった。けれど、疑問を挟む前にさとり様を信じていた。生まれたての雛は初めて見た生き物の後ろに付いて行くっていうけど、多分、そういうことと同じなのかもね。
「さあ、あなたに似合う服を見繕いましょう」
 ふんふんと鼻歌を歌いながら楽しそうに、さとり様は私の服を見繕ってくれる。カタカタとハンガーが重なる音が聞こえ、わさわさと服が連動して波打っている。
 すると、羽が生えている子でも着られる、背中に切れ込みが入った白いYシャツとサスペンダーが突いた短いカーキ色のズボンを持ってきてくれた。
「さて、まずは下着を履きましょう」
 テキパキと手慣れた要領で私の片足にパンツを通す。白い、真ん中に小さなリボンがついた女の子のパンツ。もう一方の足をあげなさいと言われて、私は膝をぐんと伸ばした。
「パンツの感触は大丈夫ですか?」
「変な感じがします、さとり様ぁ」
 パンツのゴムが私の腰回りに当たる。お股が包まれてとても窮屈な感じだった。これが、私の初めてのお着替えなんだなって。
「これが、人の体を持つということです。ささ、他の服も着てしまいましょう」
 ぎこちない腕を真上に伸ばして、さとり様がYシャツの袖を通してくれる。そして、背中のスリットに羽が差し込まれた。ぱちぱちとYシャツのボタンをさとり様が留めていると、「やってみる?」と尋ねるので試しに私もやってみたわ。
「うーっ、とっても難しいよぅ」
 眉をひそめながら一生懸命指先でボタンをつまむけど、一向に出来る気配がしない。仮に先っちょでつかめたとしても、穴にボタンを入れる所で躓いてしまうの。爪の先がカチカチと擦れた。
 私がうーうーと唸りながら苦戦しているのを、さとりさまはニコニコと微笑んで見ていた。丁度、子供をみる親の顔ってこんなのなんだろうなって。
「大人だってボタンを留めるのに手こずったりするんですよ。ほら、私に任せて」
 私のもとにかしずいて、ボタンを最後まで留めていくさとり様を尊敬の目で見る。他の子も同じようにボタンを留めてもらったのかなって思うと、少しワクワクした。
「さあ、ズボンを履きましょう」
 すっとズボンの口を開いて、私が足を通すのを待つさとり様。私は恐る恐る足を持ち上げて、さとり様の手を煩わせないように下ろしていく。けれど、つま先が安定しなくてズボンに引っかかり、ガクンと重さでズボンが斜めに偏った。申し訳ない気持ちで瞳が潤んできた私にさとり様はニコっと微笑み返してくれたの。
「大丈夫ですよ。さあ、がんばって」
 とっても勇気がもらえる言葉だった。私の心に希望の光が灯る。ただ、一歩踏み出すのが怖い私をさとり様は笑って迎えてくれる。だからこそ、不器用ながらも私はズボンを履いてみせたわ。
「ちゃんとお着替えできましたね。さあ、姿鏡の前に」
 股に食い込むようにズボンが持ち上げられる。そこにサスペンダーを背中に回してカチンと金具が鳴る。羽の付け根に重なって、ちょっと束縛感を感じる。でも、これでズボンがずり落ちる心配もない。
 衣裳部屋の壁際に置かれた大きな姿鏡の前に立たされて、私は自分の体をまじまじと見つめた。
「これが私なの?」
 別段、かわいいとか似合うとかそういう感想は抱かなかったし、抱けるほど経験があったわけじゃない。ただ、普通の人間と同じように自分が服を着ていることに驚きと、喜びを感じずにはいられなかった。
「とても似合ってますよ、お空。どこに出しても悪く無いお嬢さんです」
 パァっと私は笑顔を咲かせ、姿鏡に映る自分をじっと見つめる。新しい人生の門出と言うべきなのかな、初めて人間の体を得たんだと自覚できた。
「せっかくなので、あなたのパーソナルカラーを決めましょう」
 さとり様の腕には何本かの長い布切れがかかっていた。色は別々で、紅色やオレンジ色、柴色やターコイズブルー、そして萌黄色。
「あなたの髪は長いですからね、リボンが必要です。さあ、何色が良いかしら?」
 一目見た時から、私にはその色がとっても気に入ったの。だから、私はすぐに答えたわ。
「緑が良いです、さとり様!」
 すっと、萌黄色のリボンを片手で取り出すと、さとり様は私の背後へと周り、しゃがむように命令された。ペタンと座り込むようにしておしりを下げる。
「なぜ、お空は緑が良いと思ったんですか?」
 一度、さとりさまが読んでくださった絵本のことを思い出しながら、私は元気よく答えた。草木生い茂る場所で鳥さんと仲良くしているカバさんのお話を思い出しながら。
「えっとね、私はさとり様の傍に居たいから! さとり様は薔薇が好きでしょ? でも、旧地獄に生えている植物はどれも陰気だし。だから、私の色は地上に生えているような緑が良いの。そうすれば、さとり様は私を見て、元気を出してくれるんじゃないかなって」
 たどたどしい物言いは私の頭の悪さを露呈しているに過ぎないかもしれない。けれど、絵本で見たような優しい植物の緑が、さとり様の安らぎに変わってくれるならと思うの。地上にしか無い太陽の光を浴びてのびのびと生えそろう健康的な草木。私はそんな草木になりたいと思った。
「優しいあなたらしい言葉ね。私は好きですよ」
 しゅるると私の長い髪をつまんで、束を作る。そこに、さとり様がテキパキと手を動かして、何かを結っているのが分かった。姿鏡で後ろを見ると、蝶々のような形が出来ている。
「さあ、これで完成。これが、あなたのおめかしというものですよ」
「おめかし?」
「他人と会うためのマナーみたいなものです。とても重要で、必要なことなのですよ」
 分からないことばかりで申し訳ない気持ちでいっぱいだったけど、目の前に居る自分の姿が変わる度に、私はどんどん目覚めていくような。可能性をたくさん感じる自分の体に、愛着が持てるような気がした。
「さあ、ディナーに向かいましょう。今までのご飯とは違いますよ。より複雑に、より綺麗に整えられた料理を食べるのです。これも、人の体を手に入れた恩恵と、義務のようなものです」

 晩餐会には人間の体を持った妖怪が、純白の布に覆われた長いテーブルの左右に数人座っていた。中央には二つの席があり、さとり様が私を案内してくれる。
「さあ、座りなさい。あなたが主賓ですよ」
 二本角が生えている熊の顔が飾ってある暖炉に近い奥のほうの席。さとり様が薔薇の模様が刻まれた銀製のダイニングチェアを引いてくれて、そこに座った。座りやすいように、席を押してくれて、膝が当たる頃にはちょこんと腰を下ろす。
「今日はお空の誕生日です。人の体を得た、大事な記念日ですよ」
 パチパチと拍手が起こる。ネコや犬、猿やハシビロコウ等の妖怪たちが手を叩く。私もやってみたけど、上手く鳴らなかった。
「さて、私にはお空に大事なお話があります。皆さんも一度は聞いたことがある話でしょう。人の体を得たということの責任というものについて話しておきたいのです」
 さとり様は立ち上がり、私の方を向く。そして、真剣な面持ちで私に語り始めたの。
「人間の体を手に入れたということは、出来ることがたくさん増えてしまったということです。出来ることが増えたということは、ある程度自分で出来なければならないのです。それは義務なのです。昔のままでいれば、あなたは自分の体を不幸に思うでしょう」
 難しい。けれど、ちゃんと聞いておかなくちゃいけないと思って、頑張って覚えることにした。
「出来ることが増えた責任を果たすためには、学ぶことが最も大事です。あなたは様々な経験から、自分のできることを増やすことが出来るでしょう。だからこそ、常に学ぶのです。そうすれば、あなたは自分を好きになっていくでしょう。学ぶことに疲れたのなら、私のもとに来なさい。私はあなたが自分を愛せるようにしましょう」
 再度、拍手が巻き起こり、さとり様は私の両肩をギュッと握って見せた。さとり様の柔らかい手が少し強張っているように思える。私は自分の責任というものを強く実感した。
「さあ、ご飯を食べましょう。配膳よろしくお願いいたします」
 ゾンビフェアリーや怨霊たちがわらわらとやってきて、配膳をし始める。キッチンワゴンに乗せられた、赤みがかった1枚の大きな牛肉。そこに人参やブロッコリーも添えられていて、とても美味しそうな匂いがする。私は口からよだれが垂れちゃいそうだったけど、さとり様がご自身のナプキンでそれを拭った。よだれは垂らしちゃいけないんだってことを知った。
「さあ、いただきましょう」
 みんな、両端のフォークとナイフを手にとって、カチカチと肉を切り分けていく。その姿に、神聖なものを私は感じたわ。これが、人間特有のマナーというものなのだろうと。
「これはステーキというのですよ、お空。あなたはまだ料理の食べ方を知らないので、私が食べさせてあげましょう」
 首元にナプキンの切れ端を流し込まれ、ご飯がこぼれても良いようにしてもらう。そして、さとり様が肉を切り分けると、フォークで突き刺した物を私の口に近づける。
「ほら、あーんして」
「あーん」
 どういう意味なのかわからなかった私はあーんと言ってみると、そのままステーキの切れ端が口の中に入っていく。舌の上に乗せられ、下歯に引っ掛けて肉が置いてかれる。
「噛んでみなさい。口を閉じて食べるのよ」
 唇同士を閉じて、私は肉を前歯で食べてみた。けれど、上手く噛めないので奥歯で噛んでみる。
「美味しい!」
 肉汁がじんわりと零れ落ち、舌の上にたららと流れ落ちる。塩っぽい旨味と、柔らかい肉の歯ごたえは今までに食べたことのない上品な味だった。
「こら、食べている間は口を閉じるのよ」
 怒られた私はぎゅっと口を閉じてモグモグと肉を食べる。噛めば噛むほど味が滲み出て美味しい。けれど、徐々に味がしなくなったので、ゴクリと喉を鳴らして飲み込んだ。
「さとり様、美味しい、美味しいよ!!」
 私が興奮気味に両手を組んでキラキラと目を輝かせていると、さとり様はもう一切れ肉を刺して私の口元へと運んできた。
「お肉はまだありますよ? さあ、ゆっくりと味わって」
「はい!」
 私のペースに合わせて肉は切り取られ、そして口の中に放り込まれていく。まるで挿し餌みたい。やっぱり、さとり様はお母さんみたいな人だ。
「ねえ、さとり様。私も自分で食べてみたい」
 周りの妖怪たちが各々のペースで肉を切って食べているのを見て、自分も真似がしてみたくなった。未だにちゃんと手は動かせないけど、少しはみんなに倣ってみたくなったのだ。
「おお、いいですね。じゃあ、やり方を教えるので真似てみるんですよ」
 そう言うと、さとりさまはフォークとナイフの握り方について教えてくれた。利き手である右手にフォークを。人差し指でフォークの付け根辺りを抑え、あとは握る感じ。ナイフも同じ要領で人差し指で押さえる。これがとても難しくて、手が震えっぱなしだった。手が攣りそうだった。
「さとり様、難しいよ」
 私が心配そうな顔を見せると、さとり様は顔を横に振って見せた。
「これも試練です。経験なんですよ?」
 助けてくれないと分かった私はお肉とにらめっこをする。そして、フォークをお肉の切れ端に突き刺して、ナイフで切り分けようとした。
「うう、ナイフが入らない」
 カタカタと震えるナイフの先が安定せず、心のなかでパニックを起こしていた。どうすれば良いんだろうとさとり様を見るが、助けてはくれない。
「うにゅ!!」
 すると、力を入れすぎたフォークの先が大きくぶれて、お肉が滑り落ちてしまった。ガシャンと皿が床に落ちていく。せっかく着せてもらったズボンに肉汁とオイスターソースがかかりシミだらけ。せっかく、用意してくれた食べ物は地面の下に。
「お、お肉さん」
 私は椅子から立ち上がり、お肉をそのまま手でつまんで食べようとした。もったいなかったから。
「いけません!! 床に落ちたものは食べない!!」
 ビクン! っと背筋が跳ね上がる。烏だった時代なら許されたものを、さとり様は大声を上げて私を叱った。周りの妖怪たちも私に注目してる。その視線がとっても居心地が悪かった。
「ご、ごめんなさい。さとり様。わ、私……」
 じわじわと目頭が熱くなる。目の中がくすんで、うるうると涙がたまる。烏の時は涙なんて流したことがなかったけど、人間の体は悲しいと涙を流す。とっても、悲しくて申し訳ない気持ちでいっぱいだった。なによりも、さとり様に怒鳴られたことがとっても辛かった。
「お空、失敗しても良いんですよ」
 ポンポンと私の席をさとり様は手で叩く。座れってことなんだろう。私は指示通りに、椅子に座り直した。両手で目を抑えてるけど、涙が一向に止まってくれない。
「最初から完璧に出来ることはありえません。それはどの生物だって妖怪だって一緒。考える生き物はそういうものなのです。だから、お空。失敗を恐れてはいけません。失敗をしても、頑張って学ぶんです。挫けてはいけませんよ」
 テーブルに載っているさとりさまのステーキが私の元へ運ばれる。私がそれを見下ろしてると、さとり様がニコッと微笑んだ。
「こんな事もあろうかと、あなたには私の分があるのです。これは、ここにいるみんなが通った道なのですよ。さあ、今日は私が食べさしてあげるので、明日から頑張ってみましょう」
 鼻水をずるると吸い込みながら、うつむく私の顎を掴んで優しくお肉を運んでくれた。私はゆっくりと口を開けて、食べた。涙でしょっぱい味がする。
 
「あたいがあんたの教育係、火焔猫燐さ! さとり様からはお燐って呼ばれてるよ! よろしくね!!」
 深緑色のドレスに二本生えたしっぽ。そして、猫耳とピンと尖った人間の耳。なんとも愛想の良い妖怪ネコ。
「よろしくね、お燐」
 私が恐る恐る伺うと、お燐は子供っぽく笑って返してくれた。
「おう! よろしくね! あんたもあたいもさとり様の大事なペットだ。ペット同士仲良くやろう!」
 この時は分からなかったけど、お燐が終生の大事な友人になるとはこの時思いもしなかったね。
「じゃあ、最初は手を動かす練習をしよう」
 お燐は仕事の暇さえあれば私にかまってくれた。私はまだ仕事を任されていなかったので時間があったわ。だから、お燐が教えてくれない時は自分でちょっとずつ練習してみたの。
「よしよし、だんだん上手になってきたね」
 1周間もすれば私は走れるようになったし、棒を握って振り回したりすることが出来た。
「もっと練習すればご飯も食べられるようになるさ。今はあたいが助けてあげてるけどね」
 未だに食事を摂るのはとっても難しい。お箸というものも使うようになったんだけど、これはフォークやナイフよりも格段難しかった。
「あたいもさ、最初の時はさとり様の制止も聞かずに手と口でむしゃむしゃと食べちまったのさ。いや、あれは怒られたね。せっかくのよだれ掛けもベトベトさ。でもさ、そういう手痛い失敗で覚えていくんだよ。恥ずかしいって感じれば、自然と覚えたくなるものさ」
 お燐の言ってることは飲み込みやすかった。なぜなら、私と同じような失敗をして、それに対してどう努力してきたかを示してくれたから。
「ねえ、お燐。私、ピアノが弾きたいな」
 手を欲しかった理由の一つ。それはピアノが弾いてみたかったから。私はお燐にそのことを話してみたの。お燐はとっても話しがいのある人で、しょうもないことでも真剣に受け止めてくれた。
「ピアノは難しいよぉ。あたいもやったことあるんだけどさ」
「なにか弾けるの?」
「一曲だけならね。あたいが興味があった曲をさ」
 ふふーん! と鼻を鳴らして誇らしげに語るお燐。こういう仕草がお燐のかわいいところだと思う。
「私にそれを教えてほしいよ!」
 やる気満々の私を値踏みして見るお燐はこう答えた。とっても意地悪い表情で少しビビってしまう私。
「じゃあ、もっと練習しなきゃいけないよ~?」
 いたずらっぽく言うお燐に負けず、私も言い返す。だって、私が人の体を得るために願ったことなのだから。
「出来るもん! 私、絶対やる!!」
「ほほう。じゃあ、教えてあげるよ!」
 両腕を脇に当ててえっへんとふんぞるお燐。やっぱり、お燐はとっても優しいやつだった。
 
「ねえ、さとり様。聞いて欲しいものがあるの」
 ベランダのテーブルで一人、さとり様が紅茶を嗜んでいるところに私は現れた。なにか小説を読みながら、のんびりしていたらしい。
「ふむ、やっとピアノが弾けるようになったんですね」
 心をすぱっと読めるさとり様には勿体ぶることが出来なかったみたい。せっかく、驚かせようと思ったのに。
「じゃあ、聞いてください!」
「いいですよ」
 さとり様の了承も得て、私はいそいそとピアノのある部屋までさとり様を連れて行く。心のなかで緊張はしていたけど、聞かせたい気持ちのほうが強かった。
 楽器が所狭しと置いてある音楽部屋。そこには誇りをかぶったトランペットやマリンバ、ハープなんかが置いてある。さとり様曰く、これもアンティークみたいなものだと。
「さあ、どんな曲を聞かせてくれるのかしら?」
 私はピアノの長椅子に座って、深く深呼吸をする。その姿を、さとり様とお燐はにまにま笑いながら見ていた。観客が居るとちょっとムズムズする。
 鍵盤に右手を置く。緊張で手汗が滲み出る。私の心臓はバクバクと打ち鳴らし、とてもじゃないけど集中なんて出来ない。練習とは違い、ここまで重圧が差し迫ってくるとは思わなかった。
 けど、私はさとり様とお燐の言葉を思い出す。失敗して、学べばいいじゃないかと。そして、失敗を笑う人じゃないってことを。だから、躊躇なく、私は人差し指を押し込んだ。
「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった。ねこふんづけちゃったら、ひっかいた。ねこひっかいた、ねこひっかいた。ねこびっくりして、ひっかいた」
 お燐が好きだった曲。それは"ねこふんじゃった"という童謡。なんともネコ虐めも甚だしいこの曲がお燐の好みで、練習したらなんとか弾ける曲の一つでもあった。
 右手と左手を一緒に動かす大変さ。頭のなかが混乱しそうで、よくわからなくなる。頭が真っ白になりそうだったわ。けれど、一生懸命体になじませて覚えたの。でも、ところどころ間違えたりして、弾き直したり。ちぐはぐだった。
「あらあら、お燐が教えたのね」
「そうですよ、さとり様。お空、がんばってるでしょ?」
 確かに、さとり様のような演奏は無理だ。無理だけど、私に出来る精一杯は出し尽くしたつもり。その、なんとも言えない達成感が気持ちよかった。
「ねこよっといで、ねこよっといで。ねこかつぶしやるから、よっといで!」
 私が演奏を終え、一息ついているところにパチパチと拍手が聞こえる。二人の拍手。そして、私はやり遂げたんだと確信した。背中に張り付く汗が気持ちよく感じる。
「すばらしいわ、お空。よく頑張ったわね」
 私は椅子から立ち上がり、すぐにさとり様の方へ走っていく。そして、両手を広げてさとり様にガバッ抱きついた。
「さとり様、さとり様!!」
 私は思った。思い出した。
「私ね、こうやってさとり様に抱きつきたかったの。いつも、いつも私を抱っこしてくれて嬉しかった! だから、いつか私もさとり様に抱きつきたかったの!!」
 ピアノを聞いていれば、さとり様はいつも私を抱きかかえてくれた。ポカポカと私の心を温めてくれて、巣に返ったような安心感を抱かせてくれる。本当はそれが大好きで、ピアノを弾きたくなったんだ。私はとっても大事なことを覚えていたんだ。そして、やったんだ!!
「あなたが本当に手を生やしたかった理由、思い出せてよかったわね」
「うんっ、うんっ!!」
 ぐじゅぐじゅに私は顔を涙でまみれた。私の人生の目標が達成された喜びが、なんとも言えない感情を爆発させた。私はさとり様を抱きかかえながら、わんわんと大泣きした。何度も何度もさとり様の背中をさすって、さとり様もさすり返してくれて。ほっぺたにいっぱい頬ずりしてあげた。
 
「じゃあ、私もあなたに聞かせましょう」
 さとり様のハンカチで涙を拭う私と、横でニコニコ見ていたお燐はさとり様の演奏を待ち望む。そして、私達が落ち着いたところで、ぽろんと音は鳴り始めた。
「I'd like to thank the guy who wrote the song.That made my baby fall in love with me....」
 歌詞の意味は相変わらずわからなかった。けど、ゆったりとした曲調が、どこか私とさとり様の出会いを讃えているような感じがした。私達をつなげてくれた、歌に感謝がしたくなった。
「Who put the dip in the dip da dip da dip? Who was that man? I'd like to shake his hand.He made my baby fall in love with me!!」
 烏の体から人の体に。私はまだまだ違和感を感じ、いろんな失ったものに後悔することもあるだろう。けれど、私はこの両手で掴んだものを絶対に離さない。離してなるものですか。これは、希望なのだから。

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