マーク・トゥ・ラブ

そそわからの転載
マーク・トゥ・ラブ

 地霊殿に朝はない。なぜなら、太陽きらめく青空がないから。とても単純な話だ。ほの暗い地の底で陰気に暮らしているのが、旧地獄の妖怪や怨霊たちには性に合う。
 私のペット、霊烏路空のお陰で旧地獄に電気が普及してからは、全体的に明るみを帯びるようになったのだが、住人は時間を気にして生きていないようだ。
 だが、地霊殿の主たる私が時間を気にせず行動するというのは、皆の模範としては喜ばしくないことである。ペットの鶏やカラスのおかげで、辛うじて私は時間としての朝を迎えることができている。


「うにゅ~!!」


 どこからともなく聞こえてくる夜勤明けのお空の鳴き声。私は天蓋付きのベットから飛び出して、足で床を弄りスリッパを履いた。紫色のネグリジェ姿の私は目をこすりながら洗面台へと向かう。

「徹夜はするものじゃないですね……ふわぁあ……」

 旧地獄が地上との交流を持つようになってから、行政上の書類がどんどん増えていった。
 関税についてや、エネルギー問題、酒宴の許可についてなどなど。それに加えて、以前から行っている怨霊の管理などで精一杯である。
 私が生真面目なのか、閻魔様に命じられたことを律儀に守っている。嫌われ者の私達がすみかを得られている代償ならば、安いものだ。

「お水を張らなきゃ……」

 旧地獄の鬼の職人たちによって作られた地霊殿は、西洋の幾何学的でモダンな模様で彩られている。目の前にある洗面台も白い大理石で出来ており、イタリア風の建築飾りがおしゃれだ。
 真鍮製の蛇口をひねり、水を洗面台にためてから、私は大きな一枚鏡を見つめる。ひどく寝ぼけた顔がぼやけて見えた。

「うーん……眠い」

 洗面台の水溜まりを両手ですくい、顔を濡らしていく。バシャバシャと濡らして、顔の生暖かい眠気がひんやりと覚めていく。

「ふぅ……ん? 首筋に何か。赤い?」

 なにやら右側の首筋に赤いマークがついている。寝ている時に怪我をしたのかと思い、人差し指と中指でなぞってみた。

「血じゃなさそう……でも、赤黒いですね」

 かすかに残る赤い何かに鼻を近づけて、くんくんと臭ってみる。鉄っぽい臭いはしない。少し油臭いように思える。


「口紅、かしら。なんでこんなものが」


 肩を突き出し、首筋を鏡に近づけてよく見てみる。楕円形を描いた小さな唇の形が紅く、くっきりと張り付いているのが見て取れた。

「ペットのしわざですかね。まったく、どこで覚えてきたのやら」



マーク・トゥ・ラブ



 親愛の象徴としてキスをねだってくるペットは少なくはない。頭を差し出し撫でて欲しいとおねだりする子や、私の手を舐め回す子と同じように。
 ただ、キスマークのような、人に化けることでしかできないことは、ある程度限られてくる。
 そう、お空とお燐だ。人型に化けられるのはあの二匹しか出来ないはずだ。
 キスマークを入念に洗い落とし、身支度をし、朝食を済ませてから、私はお庭で薔薇の世話をしているお燐の方へと向かった。

「ちょっといいですか」

 鼻歌を歌いながら青銅製のじょうろで水やりをしているお燐に声をかける。お燐は頬を緩ませてニッコリと笑い、私の方へと駆けつけた。

「どうしたんですか、さとりさま!」

 じょうろをわきに置いて、おりんは腕を背中で組みながら、どんぐり眼で私に微笑む。


(どうしたのかな、さとりさま。ちょっと悩みごとがあるのかな?)


 お燐は私の心を察していた。長年の付き合いと経験で、人の表情から気持ちを読み解く力が培われているのだろう。
 心を読まずとも、仕草の読み合いで話が出来るのはとても楽しいことだと私は思う。

「そうですね。実は、私が寝ている間に誰かが首筋にキスマークを残していたんですよ」

「キスマーク?」

 お燐にとって、キスマークは初めて聞く単語らしく、首を傾げていた。心を読まずとも、分からないといった感情は読み取れる。

「口紅をつけた唇でキスをするんです。そしたら、口紅の跡が付くでしょ? それが、キスマークです」

「へえ、それをすると、どうなるんでしょうか?」

「どうなるって……それは……」

 お燐の素朴な疑問に、私は少し口ごもってしまう。
 特に体に害があるってわけではないのだけれど、愛のしるしを体に刻まれるというのは少し恥ずかしい。乙女心をくすぐるのだ。

「と、とにかく、お燐、あなたじゃないんですね?」

 頬を少し赤らめて私は慌てるようにして尋ねる。けれど、帰って来たのは当然のように、違う、であった。

「残念ながら、あたいは口紅すら持っていませんよ。でも……」

「でも?」

 聞き返す私に対して、お燐は口角を上げてみせた。


「お空が口紅を持っていたような気がします」



 お空が間欠泉地下センターでの夜勤を終えて一段落している所を見計らい、お空の自室へと向かった。

「無い、無いよぅ……」

 半開きの扉からガサゴソと音を立てて、机の引き出しを探しているお空。がさつな性格だが、こう見えて部屋はきちんと整理してある。

「どうかしたのですか、お空」

 扉を開けて中に入った私は、喪失感に身を震わせて棒立ちしているお空の背中を見つめた。
 お空は私に気づいたと共に振り向いた瞬間、ぐわっと私の胸元へと飛び込んだ。

「さとりさまぁあ!!!」

 私よりも一回りも二回りも大きい体が胸元に着地する。衝撃が私のぺったんこな胸に走り、少し呼吸が苦しくなった。

「あのね、あのね!!」

 話を聞いてほしいと言葉に詰まる子供のように、お空は私の服を涙で濡らしていく。ぎゅっと胴回りを両手で締め付けられているので、非常に苦しい。

「お空、落ち着きなさい!」

 私はお空の肩を叩いてみせるが、意に介さずに私にすがる。埒が明かないので、私はお空の悩み事を先に突き止めることにした。

(女郎蜘蛛さんから貰った、口紅が無いよ!!)

 お空の記憶をたどってみると、どうやらお空は旧都の居酒屋で知り合った女郎の蜘蛛妖怪に口紅を貰ったらしい。
 サードアイを凝らして、記憶の断片を見てみる。

『女の子なら、化粧の一つもしていないと、可愛くなれないわよ』

『でも、私はお化粧なんか一度もしたこと無いよ!』

『私も!』

『それなら、この口紅をあげるわ。女の子のオシャレって、最初は口紅から始めるものよ』

『わーい、ありがとう!』

 端麗な顔に白粉を薄くぬった艶やかな遊女が子供をあやすようにして、お空に口紅をあげたようだ。
 もしかすると、その口紅は私の首筋に付けられたキスマークと同じ色かもしれない。首筋についていたものも、お空の記憶にある血かと見まごうばかりの紅い色をしていたから。

「お空、あなたは女郎蜘蛛さんから貰った口紅を大切に机の引き出しに入れたと。でも、仕事帰りに確認したら、口紅は消えていたということですね」

 お空の心を読む限り、そのような結果だと私は判断した。よくよく考えれば、お空は夜中、灼熱地獄の管理をしていたのだから、私の部屋に入ってキスマークを付けることは出来ないはずだ。お空がまじめに仕事をしていればの話だが。

「そうなんです。私、ちゃんと引き出しの中に入れたもん……」

 白いマントがかかった翼と肩をすぼめ、悄気げるお空。私はお空の頭を抱きかかえて優しく言い聞かせた。


「わかっていますよ、お空。大丈夫だから」


 天然パーマが少し絡んだ艶やかな黒髪を撫でる。火の気のある場所で働いているのに、髪には一切の痛みがない。

「うにゅ……」

 まぶたをとろんと落とし、お空は安堵の表情を浮かべる。

「お空、口紅なら今度一緒に選んであげます。それじゃだめですか?」

 優しく諭す私の顔を見上げ、潤んだ瞳で見つめてくるお空。破顔一笑、私の胴に巻きつけていた両手を首に回して、頬ずりした。

「うん、約束ですよ!」

「そうね、約束ですね」

「口紅の付け方も教えて下さい!」

 どうせ、一週間もすれば忘れるだろう。今は口約束をしておこうと私は決めた。
 それに、仕事場が灼熱地獄に火を入れることなので、化粧も溶けてしまって意味が無い。
 そんな思いを秘めつつ、私はお空の額にキスをして、その場を去ることにした。



 お空の記憶の中には、お空と女郎蜘蛛、あと一人、会話に参加している何かが居たのだ。
 記憶力が乏しいお空なので、その誰かはわからない。ただ、ある程度は目安が付いている。
 こいしだ。あの子はどういうわけか、お空とお酒を飲んでいて、女郎蜘蛛から口紅の話を聞いていたのだろう。そして、お空が貰った口紅を盗んで、私にキスマークをつけたのだ。
 しかし、キスマークを付けるという発想はどこからきたのだろうか。それが謎である。
 その真意を正そうとしても、本人を捕まえることは非常に難しい。もしかしたら、近くにいるのかもしれないし、どこか遠くへ行っているのかもしれない。
 悔しいが、今のままでは手の打ちようもないので、私は書斎へと戻り、事務仕事の続きをすることにした。



 その翌日。朝、目が覚めて、目を擦ろうとした手を持ち上げた時に、左手首にキスマークがついているのを見つけた。昨日と同じ色の口紅で、唇の皺がくっきりとついていたのだ。
 どういう意図なのかは分からないが、首筋から場所が変わったみたいだ。
 石鹸を泡立てて、私は手首のキスマークを丁寧に消した。



 次の日、今度はなにもなかった。はずだった。
 地霊殿自慢の洋式トイレでお花を摘もうとした私は、パンツを脱いだところ、股の内側になにか赤いものがあることに気がついた。
 女の子の日でも私に訪れたのかと思い、確認するが、そうではなかった。


 例のキスマークである。


「な、なんでこんなところに!!」

 恥ずかしさの余り、頭に血が上って熱くなってしまった。
 焦る私はトイレットペーパーを勢い良く引っ張りだすと、ごしごしとキスマークを落とそうとする。湿気ていないので、摩擦で肌を擦りむいただけだった。

「もう、あの子は何を考えて!!」

 股間近くに付けられたキスマーク。私は冷静に考えると、こいしが危ない線を越えかけていたのではないかと思い、冷や汗をかいた。

「これ以上は私の貞操が危ないわ……止めないと」

 決意した私は、便器の上で両手を叩き、ぐっと静かな怒りを心に秘めた。



「そこまでですよ、こいし様!!」


 深夜、お燐の大きな声とともに目が覚めた私は、羽毛布団の中でもぞもぞと動いている何かを取り押さえた。
 もし、何かが私の周りで蠢いていたら、大きな声で私を起こしなさいとお燐に頼んだのが功を奏したのだ。
 路傍の小石のように無意識に存在を確認できないからこそ、罠を張って捕まえるしかなかった。私が寝ている隙を狙っていたのはわかっていたから。

「うわ~なにをする~」

 セリフとは反するように緊張感のないゆるい声が布団越しに聞こえる。
 こいしの脇を両手で挟むと、上半身を起こして布団を思い切りひっぺ返した。

「さあ、白状してもらいますよ、こいし!」

 目と目が通じ合う距離で、私はむっと目尻を上げていたのに対し、こいしは朗らかな表情で笑っていた。

「んーとねぇ、おねえちゃん、ちゅーっ!」

 シリアスさが伝わっていないのか、こいしは意に介さずに私の左頬にキスをする。

「んちゅぅう~!」

「だから、やめなさいって!」

 頬に吸い付いたこいしの唇を強引に離して、両肩を掴み、見据える。


「お姉ちゃん、少し怒ってます!」


 はっきりと言葉にしないと伝わらないのが、我が妹の面倒なところだ。表情や雰囲気である程度さっしをつけて欲しいものである。

「どうして怒ってるの?」

 あっけらかんと尋ねるこいしに、私は優しく丁寧に言い聞かせた。

「あなたが勝手にキスマークをつけていることです」

 ああ、そんなことか、といった表情でこいしは私に一笑する。

「お姉ちゃんが大好きだからだよ!」

「だからといって、勝手にそういうことをしてはいけません! びっくりするじゃないですか」

「ごめんね。でも、お姉ちゃんに愛の証? を付けてあげたかったの」

 悪びれないと言った感じに言いのけるので、私は少し頭が痛くなった。

「えっと、なんでキスマークを付けるようになったのですか?」

 私が抱いていた最大の疑問に対して、こいしは何が問題なのかわからないと言った顔をしてみせる。

「最初は口紅の付け方を女郎蜘蛛さんに聞こうとしたんだ。でも、気づいてくれなかったの。でもね、女郎蜘蛛さんがね、男の人といちゃいちゃした後に、口紅をつけて首筋にチューしてたの。『私のことを忘れないようにしてあげる』って」

 どうやら、こいしはお空と一緒に口紅の話を聞いて興味をもったらしく、口紅の話を聞き出すために女郎蜘蛛さんをストーカーしていたそうだ。無意識に動くためか気づいてもらえず。そのまま流されるままに情事まで見ていたとは。

「それでね、私、口紅の使い方を学んだのさ! これは、私の大好きなお姉ちゃんにしてあげなきゃダメだって思って、気がついたらお空の口紅を借りて、お姉ちゃんにキスしちゃった! きゃっ!!」

 両手で紅く染まった頬を覆うこいし。言葉の響きに一瞬だけ恥ずかしくなったのだろう。

「それで、なんで手首と太ももにキスマークを付けたのですか?」

「それはね、お姉ちゃんが気づいてないんじゃないかなーって」

 こいしは袖をめくり自分の左手首を露わにし、ポンポンと右手で叩いて見せる。

「首筋だと鏡を見ないと見えないでしょ? でも、左手首ならいつでも見てもらえるかなーって。ほら、手首って無意識に見ちゃうじゃない?」

「なるほど、愛の証は本人に気づいてもらわなきゃ意味が無いですしね」

「そう、そうなんだよ! お姉ちゃん、首筋に付けたのは気づいてないのかなって思って、手首につけたら消しちゃったんだもん! だから、お姉ちゃんのすべすべで、柔らかーい太ももにキスをしちゃった!」

「なんで、太もも何ですか? それも、股間に近い……とこ……」

 自分で言っていてかなり恥ずかしくなってしまった。不謹慎だが、少し妄想が膨らんでしまったから。

「それはね、リストカットをする人を見てて思ったの。手首だとあからさま過ぎて恥ずかしくなっちゃうから、太ももならおトイレする時とかに見れちゃうし、こっそり楽しんでもらえるかなって」

 ズシンと来る疲労感に、私は額に手を添える。キスマークの意味を中途半端にしか理解していないようだ。
 こいしの思うキスマークは愛の証のみで、いわば他の人にアピールするといったことは無いみたいだ。
 本来、キスマークはライバルや他人への見せつけ、マーキングが目的だ。それが、どういうわけか、愛の証というところだけ抽出してしまったようだ。
 まあ、そういった誤解で済んで良かったのかもしれない。プラスに考えよう。

「でね、今回はほっぺたにちゅーしてみたの。キスってほっぺたにするものなんでしょ? だから、原点回帰してみたの!」

 どうしたらいいのやらと、私は頭を抱える。
 なぜ、こういうことをしてはいけないのかと倫理的に、論理的に説明すると非常に長くなるし、私の労力が報われない可能性もある。
 そう、我が妹こいしには、こいしの言い分を含めつつ、別の方向を指差してあげなければならないのだ。そうじゃないと、当人が納得しない。


「こいし、口紅を貸してもらえますか?」


「口紅盗らないでよ~」

 このまま口紅を接収したところで、こいしはいつの間にか口紅を調達して、同じことを繰り返すのだろう。
 なら、上書きをしてしまえばいいのだ。私の都合のいいように。

「口紅の本当の使い方を教えてあげます」

 私は手渡された口紅のつまみを回し、唇に厚めに塗りたくる。ませた子供のように真っ赤に塗りつぶす。

「お、おねーちゃんも私にキスマーク? 愛の交わし合いだね! らぶみーどぅ!」


「こいし、動かないでね」


 私はそういうと、こいしの頭をむんずと掴んで、唇同士を押し付けた。薔薇の蕾のようにつぐんだ唇に合わせるようにして、私はきつめのキスをしてみせる。


「ちゅぅううううううう!」


「ひぇえええ!!」

 横で椅子に座っていたお燐が、両手で顔を隠して赤面している。だが、私は熱いベーゼを続けた。
 こいしは驚きの表情で視線を離さない。負けじと私も見つめ返す。

「ぷはっ!」

 糸を引くよだれとともに唇を外して、私は呆然とするこいしに言ってみせた。


「キスというのは、唇にするものです。そうでしょ?」


「……うん」

 こいしはこくんと、首を縦に振って頷いた。


「今度からは唇にしなさい」



 唇にキスをしろといったのは、単純に洗いやすいからである。別々の所にキスマークを付けられていては、消すのを忘れて、いつか周りの住民にとんでもない誤解を生むかもしれないからだ。
 それに、唇に口紅が付いているのはとても自然なことである。多少、消すのを忘れたところで、誰も咎めることはない。


「さとり様、私も口紅が付けたいです!」


 一週間経ったというのに、お空はまだ約束を覚えていたらしい。どうやら最近、私の唇に口紅が時たまついているのを見ていたのか、関連付けで覚えていたようだ。
 お燐も興味があるらしく、羨望の眼差しで見つめている。

「構いませんよ」

 私は手持ちの口紅から、少し色白なお空に似合うピンク系の口紅を渡した。

「女の子が口紅をする理由、分かりますか?」

 子供のお空にはまだ早いのか、わからないといった素振りを見せる。お化粧も、少しませてみたいだけのものなので仕方が無いか。
 木製のシックな化粧台の前にちょこんと座るお空の肩を抱き、優しく説いた。


「大好きってことを伝えられない、恥ずかしがり屋な乙女心です」

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